ホットの紅茶を淹れる季節になってまいりましたね。
午後のひと時、みなさんいかがお過ごしでしょうか?
FMラジオのような書き出しから入ってみましたが、基本私は紅茶よりもコーヒー派(藤子不二雄ならⒶ派、うしろゆびさされ組ならゆうゆ派、COMPLEXなら布袋派)ではあるのですが、たまには紅茶もいいかな?と、きまぐれ☆オレンジ風味のティーバッグを購入して小指を立てながら飲んでるんですけど、一回一回使用済みティーバッグを捨てる度にもったいないオバケに怒られそうでビクビクしてるんです。
だって今履いてるTバックは洗っては干して何度も使用しているのですから。
たった一字違いなのに、運命は残酷です。
紅茶のティーバッグ捨てるのもったいないけど一杯の量は?
ホット紅茶一杯の分量ってご存知でしょうか?
記載されてるのを見ると、一杯分のお湯の量は150mlだそうです。
まさしくハイソな小さなティーカップに一杯の目安ですね。
しかし150mlなんて、3口で飲み干してしまう程の少量ですよ!
どうせならマグカップで飲みたいものですが、ダメですか?
ティーバッグを二つ三つまとめて淹れるならそれでも良い気もしますが、でもひとつだけでも色味的には十分濃く抽出されてる気がするので、300ml~350mlぐらいのお湯の分量で全然美味しく頂けると思います。
通常一分間ティーバッグをつけて取り出すそうなので、分量が2倍ならつけおき時間も2分以上待てば同じかと。
私はミルクも入れる派なので、ますます紅茶自体の風味は薄められて、もはや気にもなりません。
これならティーバッグも全力を出し切ってゴミに捨てられても本望であると思いたいところですが、それでもどこか忍びないというか罪悪感がつきまといます。何故だろう。
ティーバッグの憂鬱
なんか「まだ僕は何かの役に立てるよー」という声が聴こえてくるのです。
でも実際他に何も用途が思い浮かばないので心を鬼にして捨てるのですが、何故だろう、麦茶用のティーバッグに対してはなんの感情もなく投げるように捨てられるのですが、紅茶のティーバッグには後ろ髪をひかれてしまうのは。
おそらくひとつひとつが最初は紙に丁寧に包装されていて、持つ部分があって糸まで付いていて、それを上下に揺らす際にその重量まで記憶に留め、小さくて可愛い印象まで与えられてしまうからではないか。
一見そこそこの手間をかけて作られたひとつのティーバッグが、ちょいちょいと湯につけてポイと捨てられるだけというのは、極めて冷徹無比な現象に思うのです。
でもそれ以外に使用用途がないのだから仕方ないのですが、その無能さすら愛おしくなるのです。
あぁ‥まるで、祝福されて産まれてきたというのに、最期は枯れ果てて亡くなる哀れな生き物のようではないか。
お湯に色と香りを付ける事しか出来ない、そのためだけに精製された十把一絡げならぬ50バッグひと箱入りのティーバッグ達‥。
その存在意義に心苦しくなるくらいならば、紅茶なんかに手を出さなければよかった‥!
ティーバッグが醸す哀愁、これこそが冬の始まりを告げて黄昏たひと時を演出する為のにがい罠だったというのか‥!!
まだあと30回分くらい残ってるぞ。
注ぎ入れる度に落ち込むようではたまらんな。
俺はやっぱりコーヒー派だな。
インスタントコーヒーなら、全て溶けて消えてなくなるから、こんな余計な感情を背負わずに済むのだから。
紅茶のティーバッグひとつで毎度毎度心を痛めるなんて‥、我ながらどうかしてるぜ。いよいよなのか?いよいよなのだろう。
木枯らしの季節がいけないんだ。
砂糖なんて買わなきゃよかった。
↓ 安い!!
見て判る通り正式名称は「ティーバッグ」です。
ティーパックでもティーバックでもありません。
お間違いのないように。